とある "Down-Shifter" の日常

そのとき考えます(笑)

40代で専門学生になる⑫ 社会人の繋がり

 僕のクラスでは社会人経験者が僕を含めて3名/約35名でした。

 2人は女性。年齢は僕が真ん中。前に書いた同じ班にいるAさんと話するようになり、その社会人女性の繋がりでBさんを紹介され3人組になりました。特にAさんは年齢も近く、大学時代の専攻や趣味も似通っていたのでよく一緒にいました(変な目で見られることもありましたが 笑)。

 しっかり者のAさんですが、さすがに18~19歳のノリや態度についていけない部分もあったので、次回の班分けの時は「社会人3人を一緒にして欲しい!」と先生に直談判することになりました。せっかくなので楽しく話の合う、しかもお互い気を遣わない関係のほうが集中できるので、僕も同意しました。

 班分けは作業分量や意思疎通に大きな影響をもたらします。だから若者たちも多少は神経を尖らせているようでしたが「おっさんはいないほうがいい」と思っていた節もあると思いますのでWINーWINでしょう(笑)。

 ただし、班分けは基本的には "くじ引き" で決められるので、そこは先生方が操作してくれたということです。まぁ、実際に新しい班が発表されて張り出され、社会人3人+(残念ながら若者達から疎まれていた)ハンディキャップのある子2人が同じ班になったところで文句を言う人はいなかったです。空気を察して「そりゃそうよな」「ええんちゃう」という感じでした。

 ※これからの人は、もし社会人がいて、その人と気が合いそうなら積極的に工作を仕掛けることをおススメします。これ【★★★★★】です。

 

・・・・・。

 

 彼女たちの進学理由に共通していたのは、

「子育て費用を作るために、資格を取ったうえで仕事をする」

『二ツ星の料理人』,原題: Burnt,米,2015

 という現状打破と生涯設計でした。仲が良くなるにつれて深い話をするようになりました。詳細は避けますが、コロナ禍真っ最中でボーナス停止の旦那さん、会社の先行きは不透明、子ども2名と3名、中学受験も考えていたようで「ママ」としても生存戦略として必死なのが伝わってきました。家事・育児の合間を縫って(旦那さんの愚痴もよく聞きましたが 笑)、学校に通い、レポートを提出し、試験勉強をする。

 

 僕「えらいですよねー」

 A「もぅ、奮い立たせてますよ」

 

 と返ってくる。実習には厳しいテストがあって(これも後に書きますが)、居残り練習というのができます。そのときも卵を3人分買ってきて一緒に残ってフライパンを動かす。ギャグを言い合う仲になるって笑い転げる。お子さんがカブトムシが欲しいというので、採集が得意な僕が自分の子どもと採りに行ってそれを学校であげる(笑)。

幸せのレシピ』,原題: No Reservations,2007年,米

 考えてみてくださいよ、それなりの年齢の男女が若者と同じ学校から支給(というか購入)された制服を着て、一心に鍋を振る姿を。もちろん年齢が上だからって若者より上手い訳でもない(ただし何故か3人とも上手な部類だった)。失敗もありますし、恥をかくこともある。言い出すとキリがない。それでも現状を変更しようと、時折顔を出す「不安」という想像をまな板に叩きつけながら行動に移している。

別に誰も褒めてくれない、いや、むしろそれが心地よいのかもしれない。社会人として経験した形式的な(決して正しいとは限らない)他者からの人事評価など存在しない。周囲の目や世間体など気にしていたらコックコートなど着れない。

 

人間って、他人からの評価や目線を気にしなくなるだけで、やることが明確になるもんです。

 

 こうして僕は、彼女たちの、「自分の力を放棄しない」、「現状維持ではなく変化していく」という姿勢と行動からたくさん大切なものを頂いた訳です。

今日はもはや感謝の備忘録ですね。

 

40代で専門学生になる⑪ 周りの子どもたちから見れば「不思議なパパ」

 今日は仕事を辞めて専門学生になった僕が、居住地の周囲の人々、とりわけ子どもたちからどのように見られていたのかについて書いていきます。

 僕は古いマンション住まいなので、同じマンションに自分の子ども(以下、カイジューくん)と同学年だけでなく、隣のお兄ちゃん、お姉ちゃんがそれなりにいます。マンションの1階には小さな公園があって、少し離れた場所にとても大きな公園があります。みんな幼稚園や小学校から帰宅して、おやつを食べて、(たぶん)宿題を終えると、結構な頻度でいずれかの公園にやって来ます。幼稚園で約束をしてくる場合もあります。カイジューくんは園児だったので、やはり保護者が同伴しなければならない。となると、「学生」という身分の僕は、「パパではあるが学生である」がゆえに、ほぼ自動的に、

 

「僕ですよね、ハイ」

 

 という意識が働きます。上に「パパではあるが」と書きましたが、この言葉の意味は結構深いですね。というのが、土日祝であっても、公園に行けばママさんが同伴していることが圧倒的に多い。正社員だけでなくバイトで、パートでなど共働きが多いご時世ですが、仕事を終えて16:00から18:00、夏場なら19:00とか(!)まで公園で子どもと遊ぶママさんって本当に大変だと思います。心身ともにハードなはずなのに、それを日課のように続ける・・・。

 たまに友人のパパに子育てについて聞くと、

 

「子どもとの遊び方、接し方がわからない」

 

 といった旨の話を聞くことが結構あります。多くの場合は「わからない」んじゃなくて「恥ずかしい」んだろうなと僕は考えています。子どもと遊ぶのは子供染みる訳ですから、世間体などを強く意識している人、他者からの評価を気にする人にはなかなか本気モードの遊びはハードルが高い。膝を地面に付けて接する相手とは認められないのかもしれない。そういう態度が子育てにおいて問題かと言えばわかりません。各家庭で役割みたいなものがあるでしょうし、子育ての正解はひとつではないと思います。

 

 しかし自分の幼少期を想起しても、小学生も中学年以上になるとパパ同伴なんて激減するのは間違いない。しかもその後は付かず離れずの関係になる。僕の場合は前職の頃から時間があるときは「カイジュー」と一緒に、野遊び(探検・冒険)や公園での各種民俗的遊戯に参加していました。『鬼滅の刃』が流行っていた頃は、木の枝ですべての呼吸の型で斬られたと思います。友達とか一緒だとフルボッコですどっちが鬼かわからへん。鬼ごっこ(オニゴ)でも警泥(ケイドロ)でも、丘から転がる人間ドングリでも恥ずかしげなくやってしまいます。その結果、僕が子どもと一緒に公園に行くと、もはやほとんどの子が仲良しで、

 

「〇〇〇のパパ、鬼やってーーー!!!!」

 

 と集まってきます(大人に鬼をやってもらうと緊張感が増して楽しい)。そんな僕が、仕事を辞めて無職になったので、子どもと遊ぶ時間が更に増えた。

 

・・・子どもって、とっても敏感です・・・。

 

 土日どころか平日の学校終わりでも頻繁に出没する「僕」という「〇〇ちゃんのパパ」。他の子どもたちからすれば不思議なんでしょうね。

 

・・・・・。

 

「なぜこのパパは今日もここに存在しているのだろう? 違う!「パパ」というのはこんなバッタみたいにその辺で跳ねていないはずよ。カブトムシとかクワガタみたいに公園なんかに出没するのはとってもレアなのよ。わたしなんか、もしかしたら1日の始まりから終わりまで顔を見ない日だってあるのに・・・」

その結果、

 

「〇〇ちゃんのパパってなんのお仕事してるの?」

 

という質問が若干増えました。これはおそらくその子自身の問いではなく、その子の家庭内で噴出した問いなのではないかと思っています(笑)。いろいろあるもんです。

 

40代で専門学生になる⑩ 通学編

 今日11月11日は「豚饅の日」です。さっきTVでやっていて生まれて初めて知りました。なぜ11月11日なのかというと、3分前にGETした受け売りですが、豚の鼻が⑪に似ているからです僕はそんなこと言っていません思いもよらぬ展開でした。

 

・・・。

 

今日は『「えいっ」と仕事を辞めた編』を少し休んで、タイトルのとおり「通学」についての話をしたいと思います。

 

1.荷物が多い

 専門学校というのは実習に用いる諸用具が色々あります。調理製菓系の場合、一番の大物は「包丁ケース」です。ドンですね。和包丁(①柳刃、②出刃、③薄刃)、洋包丁(④牛刀、⑤ペティナイフ)、⑥中華包丁と、合計6本の包丁を収納する頑強なケースは50cmクラスです。それに加えて何度も洗濯するコックコート、シェフハット、エプロンがありますが、なかでも防火性、防刃性に(生徒用として)優れ過ぎたためあまりにも分厚いコックコートは予想以上の重さです。更に(まだかよ)・・・入学当初しばらくは毎日のようにやらされる包丁研ぎの砥石・・・。

れからって人は、ロッカーが割り当てられるので、家に新品を置いておいて、学校のロッカーに砥石を置いておけば良いです。ただ、コックコートや砥石等の盗難もあるので施錠はキッチリと!!。これ【★★★★☆】です。

 いずれにせよ専門学校は職業訓練校でもあるので、仕事道具が多く、荷物は巨大になります。

 

2.帰宅時に買い物をして家で料理する

 専門学校にしろ何にしろ、本気で学習したいのであれば対象は近いほうが良いというのは前に述べました。少しぐらい疲れていても行く気が出るからです。家族がいる僕にとっては、当時幼稚園児でもあった子どもの育児・家事があり、更に実習で作った料理は必ず家でも(完成品になるまで)作ると心に決めていました。だから学校帰りには必ずスーパーに寄ることになります。これによって、20%off、半額、訳アリ商品など、できるだけ安価だけど品自体は悪くないものを見る習慣がつきました(笑)。食材に関する「旬」を知り、代替品として使える食材を見る目もそこで養われた部分があります。言ってみれば、作り手になってやっと人生で最も食材に関する知恵を獲得し始めたと言っても言い過ぎではありません。

 ちなみに家で完成させたものの中で「これは間違いなく商品として出せる!と」確信した料理でも、ウチのカイジューくん(幼稚園児)の口には合わないようで、やはりママには勝てないこともわかりました。100品以上を作りましたがママより美味しいとお褒めの言葉を頂いたのは実に1品!!!だけです(笑 これはまた別の機会に)。

 

3.バッグが登山用になる

 18歳や19歳の生徒の中には包丁など持って帰らない人も多々います。だから荷物はわりと少ない。僕の場合はそんな悠長なこと言ってられません。通学して作り、帰宅途中に買い出し、帰宅して再度作る。この繰り返しです。だから通学用のバッグは前職で愛用していた40リットルの登山用バックパックにしました(笑)。元々、両手が空くメリットが好きで、出張時でもバックパックとスニーカー派だった僕にとっては、考えるまでもなくこの一択でした。結果的に、そろっと耳にしてしまった僕のあだ名は、

 

「あ、クライマーや」

 

となっていました。誰がやねん、誰がエベレストやねん(笑)

youtu.be

 

 

 

40代で専門学生になる⑨ 仕事を「えいっ」と辞めた話(3)

 忘年会のシーズンが近づいてきました。僕の場合、職場の忘年会はなんだか楽しめず、友人たちだけで開催する忘年会が、忘年会を忘れるための忘年会でした。こんにちはみょんみょんです(誰やねん)。

1.人生に影響を与えた「大きな背景」

 今日は僕が前職を辞めるに至った「大きな背景」について書いていきます。ここに挙げる大きな背景は実際の出来事です。それらとは別に人生を再考する(≒ 前職を辞めることも含め)影響を与えた要素としては、職場内の出来事はもちろん、小説、映画、音楽、学術論文、歴史など多岐にわたりますが枚挙に暇がありません。また書きます。

で、ここで言う「大きな出来事」としては、

 

(1)阪神淡路大震災

(2)東日本大震災

(3)マイノリティ支援における自分の立ち位置への疑問

(4)コロナ禍(COVID-19 Virusによる世界的パンデミック→これは別の機会に。

 

 少なくともこの4つが挙げられます。それぞれの内容について、自分の経験に引き付けて書いていきます。

 

(1)阪神淡路大震災と僕

 結果から言えば、僕が居住していた地域は震度4で大きな被害はありませんでした。当時僕は高校生。前日の1月16日から病院で点滴をするほどのヒドイ風邪を引いていました。地震発生時はAM5:46でしたが、その数分前から強い吐き気を感じてトイレに引きこもっていました。深度4とは言っても、今まで経験したことのない異様さを感じたのを覚えています。「これは違う」と。だからトイレから出た直後に自分の部屋で急いでTVをつけました。そこに映っていたのは、阪神高速道路が模型のように倒壊している映像でした(その後は書きません)。

 被災者の方々の苦悩や苦労は想像力を働かせることしかできませんが、年齢も関係なく、ある意味ではフラットに、5,000人以上の人々が一瞬にして死んでしまうという現実は、

 将来の不確実性・明暗の表裏一体について大きなインパクトをもって立ち現れました。 

 だから僕にとってこの災害は、風化させないといった高尚なものではなく、その後も人生を考える際に常に懐から取り出されることになります。当時は奇跡的にも知人・友人に被害者がいませんでしたが社会人になってから仕事で知り合った同い年の知人の弟が犠牲になられたことを知って、更に思いが強まったこともあります。

 

(2)東日本大震災と僕

 今度は2万人弱があっと言う間に亡くなります。当時、僕は関西にいたので直接的な影響はありませんでした。仕事中でしたが皆でTVの生中継に目を見張りました。またか・・・と阪神淡路を思い出しつつも、津波仙台空港に押し寄せる映像を見ながら同僚が隣でふと言い放った一言が今も忘れられません。

 

「日本でもこんなことになるんや~」

 

 僕はその一言に「????」を覚えました。あまりに衝撃的な言葉を聞くと、人間は返す言葉も出てこないもんです。何を言っているのかワカラナイ。ピヨピヨ状態パルプンテ

 自然災害が発生しても、今まさにTVで生中継されているような悲惨な状況は、先進国家である日本では起きないだろうというという誤った認識。過度なナショナリズムローカリズムの土壌を成すような根拠なき優越心。加えて、今まさに命をかけた困難に直面しているであろう人々に対する想像力の欠如・・・。彼女もまた阪神淡路大震災を経験している年齢です。それでも尚、明日は自分もわからない、何者になるかさえわからない、決して他人事や対岸の火事ではない、人生など不確実性の塊だという真実に行き着かない。むしろ、そういった思考や態度とは逆に、我々は制御された世界に暮らしているというシステムの構成要素に成り果てた無自覚的自覚。当然、1万8,000人以上の人々が瞬時にして死亡、行方不明となったこの震災は僕にとって、今も尚「戦後」と同様に括弧つきの「復興」です。

 

(3)マイノリティ支援における自分の立ち位置への疑問

 今では性的少数者(セクシュアル・マイノリティ、略称として「L/G/B/T/Q」など)に関わる諸課題も一般的に語られるようになってきました。僕は2015年に、親しい大学教員に声を掛けて頂き、初めて性的少数者と呼ばれる人々が集まる月例会に参加させて頂きました。その会では、被差別部落性的少数者在日コリアンというマイノリティが混在していました。正直な話、僕も最初は戸惑いました。言ってみれば、被差別部落の出身であり、在日コリアンでもある、加えて性的少数者でもあるという複層的な属性を持つ人もいた訳です。現実は決してひとつにまとめられない。

 その会の中で、性的マイノリティに関わる用語についていけない部分もあった僕は、自分の無知さを知り、それを契機として勉強を始めました(お勉強ではありません)。知れば知るほど、彼らの過去~現在に至るまでの苦悩と自分の無知さのギャップを恥じました。だからアンテナを張って、研究者による研究発表会があると聞けば京都に赴き、兵庫に車を走らせ、なんとかコンタクトをとって飛び入り的に、当時はまだ広く知られていない活動団体の会にも参加させて頂きました(マイノリティを出汁に金儲けしか考えていない組織も幾つかありました)。そうこうしているうちにフェスタを開催するために団体の運営委員になって資金繰り(スポンサー探し)に四苦八苦したこともありました。SNS等でも発信していたので活動が広がり、友人との酒の席でも、

 

「なんのためににああいう活動やっているの?」(無関心)

「いやいや、そんな問題も経済と絡み合わないと解決は無理」(倫理は?)

「その人がゲイであれレズであれ、私は気にしないけどな」(無関心)

「法律(婚姻に関する憲法の話です)が変わることはないでしょうね」(無関心)

「とーたんは優しいからなぁ・・・」(無関心)

「僕は昔、ゲイの人に嫌な目に遭わされたからなぁ」(偏見と無関心)

「公務員だからそんなこと言えるんです、民間なら相手さんのこと考えてそこまではできない」(なるほど)

 

 といった類の言葉をたくさん聞いてきました。活動をしていると何故か妬まれるというのもよくわかりました。椎名林檎さんの歌詞ではないですが「据え膳の完成を待」っているだけの人たちがたくさんいることもよくわかりました。だから活動していると、僕自身がマイノリティとなる(笑)。

youtu.be 

 ちゃんと教育してくれよ(笑)。

 ただ、マジョリティ側による上記のような発言には、現状を変更する可能性を奪うというよりも、無知・無関心が基底になったものがほとんどです。だからその時々において発言者を責めることはしませんでした。「なるほど、今の現状はこういうもんだな・・・」と社会におけるマイノリティについての客観的な確認作業と割り切るしかなかった。いやほんまに、2015~2016年当時はそんなもんでした。

 概念的な「隣人」という存在を意識していた僕は、当時は公の立場にあったこともあり「公務員こそまずこういった現実を主体的に学ばなければならないんちゃうの?」と自問した結果、自分が所属する公共団体に、活動で知り合った「当事者」である知人を呼んで、なんとか全職員対象の研修会の開催を実現させることができました(学校現場での教職員に対する研修は許可されませんでした。今なら許可されると思いますが 笑)。

 しかし、そこでひとつ考えを巡らせなければいけなかったことがあります。というのが、なんだかんだ言っても僕は公の人間。ボスは日の丸。であるならば権力を持っているのは僕自身の立場であるじゃないか? という疑問です。社会学者の内田樹は、「自分らしさ」とか「自分探し」といった言葉の胡散臭さについて、

「そういうことを口にする人間が、しばしば「管理する側」の人間だった」(注1)

 という点に求めています。「自分らしさ」というのは多様性の軸となるもので、個々人が主体的に「私はワタシ」と考えることで、レイシズムナショナリズムローカリズムなどのイデオロギーを客体化し、主体性をもって振り払うために有益です。だから内田による「管理する側」の都合という指摘は、使い方によっては個々人の力を減退させてしまう危険性もあって完全に首肯できるものではない。

 それでもなお、僕自身にとっては、セクマイの皆さんがどれだけ婚姻に関する訴訟を起こしても、いつまで経っても認められない現実と、管理する側から代替案的に提示されたパートナーシップ制度(認知の向上としては意味もありますが)、杉田水脈さん?(元ですか現職ですか?)国会議員による「生産性」用語における思考を伴わない乱暴な使用などを見ていると、公に属する人間として、その組織内において、自分はシステム内部に存在する1体のウイルスでしかなく、さらにその拡散力に限界を感じつつありました。

 障碍者(障害者)、セクマイ、在日コリアンあるいは新渡日者などマイノリティに関わる課題など、公人であっても意識的な人しか考えないどころか、用語さえ知らない公務員もたくさん存在します。しかも下手を打てば「意識高い系(笑)」として一枚岩的に括られ、面倒な奴としてレッテルを張られ揶揄されるという(笑)。

 その意味では、システムとして見た場合、内田が指摘する「管理する側」の人間である私という立場を払拭できない面も認めざるを得ない

 

・・・・・・。

 

2.現状維持をやめて、「今」に焦点を合わせる

 先に言っておきますが、これは将来への悲観ではありません。僕が上に挙げた震災における死のリアリティマイノリティ問題と自己の立ち位置といった視点は、変化を過敏に恐れるため、現状維持を選択しようとする恐怖心を振り払い、行動を起こすための(ある意味では)楽観です。楽観でいいんです。

 僕は明日にも死ぬかもしれない、障碍者になるかもしれない、歳をとれば「(後期)高齢者」と社会的に括られた末に幾人かに疎まれるかもしれない、国家、民族だけでなく色々な側面においてマイノリティになる可能性だって捨てきれない。これらは問答無用の現実です。

 しかしながら、将来を不安視ばかりしていても何も始まらない(外務省の言うことを聞いて独り旅もできないじゃないか!)。そんな不安こそ根拠なき想像でしかない。

 だからこそ大切なのは、未規定な「未来」への不安ではなく、将来の未規定さ・不確実性をしっかりと血肉化して認めたうえで、それらを傍に置いたまま、

 

「今」の大切さに気付き「今」を行動する。

 

「リスク」も「不安」も現状のシステムに自分を依存させているが故の想像の産物に過ぎない。そう思った訳です。その行動を実践する選択権は誰にあるのかと問えば、もちろん自分です(明日、学校に行くか、仕事に行くか、釣りに行くか・・・etc、選択って自分以外の誰がするの?)

 

と・・・次回はダウンシフトにつづく(と思います)。

※上記内容は、また別の機会に分解したうえで詳細に書きたいと思います。

______________

【注釈】

注1 : 内田樹,『サル化する社会』,文藝春秋, 2020

 

40代で専門学生になる⑧ 仕事を「えいっ」と辞めた話(2)

僕が前職の公務員を辞めたのは2021年3月末、前に書いた通りコロナ禍の真っ只中でした。

1.辞表を提出

実際に辞める決心をして辞表を提出したのは6ヵ月前。わりと早い。しかし衝動的・感情優先的になった訳ではありません。「善は急げ」とか「思い立ったが吉日」は大切ですが、やはり家族がいる・・・。衝動はありましたが(あるでしょ?)理性で抑え込んでいました。だから、数度の家族会議における審議などを経て(これについてはまた今度書きます)「できる限り」の計画を立てた結果です。この「できる限り」ってのはわりと大切です。簡単に言うと、人生における先のことなど事細かに読めないのもまた真実だからです。AI将棋じゃあるまいし!だから、多少のアイドリングや遊び心も、行動を起こす・実践するためには重要です。

 

・・・・。

 

2.早めに辞表を提出した理由

早い目に辞表を提出した理由としては主に、

①少しでも早く自分を解放して次に進む準備をしたかったこと。

②早めに上司等に周知することによって、この組織にいなければならない(あの浅ましい人間の顔を見なければならない)期間をできるだけ早く明確にしたかった。

この2点が挙げられます。

我々現代人はすぐに「一生」とか「ずっと」とか言いがちですが、それらを口にしたり意識することによって、本当は多様な職業・多様な人間・多様な生き方≒広い社会が存在するのに、まるで井戸の中に住んでいるように視野が暗狭になり、心身共に身動きがとれなくなる。

 

「一生、このままでいいのだろうか・・・」(どよーん)

「ずっと変わらないじゃないか・・・」(どよよーん)

 

「愛」(Love)ぐらいじゃないですか? 今の "よのなか" で「一生」とか「ずっと」がポジティヴな意味で用いられることって。そもそも論として、人生に「ずっと」などあり得ない。だから、自分という竹に先立つ節目を入れることはとても前向きなことだし、精神衛生にとっても大切だと思った訳です。

映画『6才のボクが、大人になるまで。』,原題: Boyhood,2014年,米

 

「あと6か月だけやー----ん!!」

 

・・・ステキ(笑)

 

次回は人生のギアを低速に入れようという考えに至った背景について書きます。

40代で専門学生になる⑦ 仕事を「えいっ」と辞めた話(1)

 今日は17時まで働いて少し横になっていると子犬のような浅くかわゆい眠りについて目覚めたら19:00でしたこんばんわ。シャーリーです(誰やねん)。

 これまで連続で「40代で専門学生」になった中身を主に書いてきましたが、今日は前職を辞める経緯について少しお話をしようと思います。突然ですが、

 

「今の職場でいいのだろうか?」

 

 と自問する日々を過ごす人は少なくないと思います。特に35歳を超えると(転職サイト等のメディアがせっせせっせとと喧伝するために)転職年齢としても最後のチャンス!?とか考えたりしますね。それでもなお人々は、

 

「転職しても状況が好転するとは限らない・・・いや、むしろ悪化するかも・・・」

 

 といった不安に苛まれ、かつその不安に自分の背中を押してもらって現状維持を選択します。まぁ、わからんでもないです。

 こんな状況を維持させている要因のひとつに、日本が未だに年功序列・終身雇用制・非民主的な上意下達・右向け右!が一般論としてまかり通っちゃっている不可思議な国という現実があります。その結果、

 

「まぁ、声を出さずにこのままいればいいさ」

 

 という現状維持の意識が環境的な問題として働きやすくなります。

 なかでも終身雇用って制度はよくないですね。さっさと廃止(つまり官民共に従業員を合法的事由によって解雇できる)したほうが社会全体における人的な流動性は活性化すると思います。さらに職業にまつわる社会的地位の高低差は縮減するため、仕事や労働に対する柔軟性が社会のみんなにいきわたる。その職場に残りたい人は残るために自分なりに頑張ればいいし、クビになりそうなら/なってもいいのなら次をさっさと探せばよい。

 日本全国の労働者がそうなのだからワンダーフォーゲルのように転職・転業など当たり前になる(日本以外は既に当たり前ですが)。さらに公共の場合は、公務員もクビになるのだから、本当に有能な人だけを残す努力を組織が行う必要が出てくる。

 もちろんその場合に重要なのは首長や執行部が有能かどうかです。左が正しいのに右向け右の職員が有能なはずがないので、権力者に従順な兵隊だけを残そうとすれば、政策は非民主的なだけでなく薄っぺらく間違ったものになる。新たな変革など起こせるはずもなく、公共団体の無能さが徐々に明るみに出てくる(「気づく」という点では有権者にも責任がある)。終身雇用がなくなれば次の労働にチャレンジするため外に出ていくハードルは下がり(仕事なんてなんだってよい)、公務員という安定的地位も意味を為さなくなる。上意下達や年功序列が意味をなさなくなれば、有能な職員を残すために組織内で話し合うしかない。それは対等の立場で行われる交渉であり議論である。今のような日本の非民主的=専制君主制的な統治・組織体制とは異なる、とても民主的な時空だ

日本が民主主義国家?それが社会まで浸透している?キミは一体何を言っているんだ?

ありえない。そんなこと、君自身の職場環境を冷静に眺めてみれば理解できるはず。

 

youtu.be

 

 終身雇用制の廃止は、日本に居住する(あるいは人口減少を踏まえた外国からの潜在的労働者も含めて)

みーーーーーーーーーーーんなにとって有益なことなのに、メスが入らない。

 そういえば「45歳定年制」を唱えたどっかの社長がネットで袋叩きにされていました。その理由の多くを(見るに堪えない人々の集会所である)「ヤフコメ」に求めると、「社長が言うな」とか「社長だから」という内容に帰結する。

確かに現状の日本社会は先に書いた通り、「30代、40代、次いこーぜ!」まで至っていないのが実情ですが、「社長が言うな」ってのは結局はルサンチマンでしかなく、雇われという自己を再確認したうえで、自分を哀れみ、自分の力を手放している、ただそれだけの話です。自分の力を手放すということは他人の目線を常に意識して流されながら囚人のように生きることです。だから、「社長が言うな」という感情の根本は360度一周回ってその匿名コメントの発言者自身に戻ってきているのに、それを理解しないこの上意下達の構造の根深さ。

 

・・・次回はもうちょっと具体的な経験を書きます。

40代で専門学生になる その⑥ 「他者から奇異の目で見られる」ということについて。

40代で専門学校に通い始めると、さすがに多少は奇異な目でみられる(ことがある)というのは前に述べました。

こういう状況に出くわすと多くの場合、「自分がどう見られているのか?」ということが気になったりもします。

例えば、

 

「コロナ禍で無職になってしまったんだな・・・」

「会社が倒産しちゃったんだな・・・」

「坊主頭に髭・・・まさか出所した人?」

 

とまぁ、ポジティヴな内容は皆無ですね(笑)。

しかしここで大切なのは、

 

これらは僕自身の勝手な想像でしかなく、実際に言われたことではないという現実です。

 

要するに、僕自身の認知の仕方がネガティヴな方向に向いていただけです。こういった勝手な思い込みによる物事に対する捉え方を「自動思考」と呼びますが、僕の場合は幸運にもそういった悲観的な想像が無意味でしかないことを知っていたので、すぐに振り払い、捨て去ることができました(洗い流すというか)。「根拠のない想像力はウソである」というのは精神科医の故斎藤茂太先生の言葉ですが、まったくその通りだと思います。

 

・・・・。

 

っていうか・・・だいたいやね、自分の18歳当時を思い出してみてくださいよ。鼻水こそ垂れていないもののクソガキであることに間違いはないでしょう?もしかしたらゴムの付け方さえしらない。

40年という月日の中で多少なりとも修羅場をくぐり、危ない綱渡りもしながら、今日という日を迎えられた・・・しかもまた綱を渡っている(かもしれない)人間が、世界・社会は広いんだゼ!と知りながら、なんで18歳のクソガキを相手にネガな自動思考を働かせなければいけないのか?

 

「お前ら、何者ゾヤ!?」

 

という漱石先生がイギリス留学時に陥った苦悶時に覚醒した個人主義的な思考がこんなときに役立つわけです。

 

というわけで(どんなわけだ)、若い生徒からの目線は軽く払拭した僕でした。

実際に、社会人出身者以外の生徒にはこれまでの人生など話したこともありませんが、ほとんどの生徒が同等あるいは目上の人として僕を扱ってくれていたように感じます(そうでない人もいましたが、そんなことはどうでもいいことです)。

 

そんな中で、ひとつだけ驚いたことがあります。以下、A君(18歳)と僕の会話。

 

A 「俺、フランス料理かイタリア料理を専門にしたいんですよー」

僕「ほうほう、じゃあ良い機会があれば留学なんかも視野に入れたらいいね」

A 「いや、日本のほうがフランスより旨いって言いますから」

 

と跳ねのけられたことです(笑)。

この時はさすがに・・・ぶっ飛びました。

なるほど、今時の学生A君はネットの世界がすべての情報源なんだなぁ・・・と視野の狭さと内向き加減に唖然としました。さすがにそのときは、文科省や大学教員が嘆くように、バックパッカーだけでなく学習も含めた海外渡航を目指す学生が減少している現実を目の当たりにしました(この傾向はコロナ禍以前からです念のため)。